図1 篠崎の地形と江戸時代の街区(左)、明治の練兵場に伴う塀跡(右)

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等高線は語る ―篠崎武家屋敷跡のその後―

2017.7月号

埋蔵文化財hiroba
遺跡からのメッセージ
(公財)北九州市芸術文化振興財団
埋蔵文化財調査室 学芸員 川上秀秋

 勝山公園の南端に位置する市立勝山弓道場からスピナマート大手町店にかけての南北約0・6キロメートル、東西0・44キロメートルの範囲は、江戸時代に篠崎と呼ばれており、幕末のころには家禄(かろく)100石以上の武家を中心に104の屋敷が建っていました。
 1866(慶応2)年8月、小倉藩は長州藩との戦いの中、自ら城に火を放ち田川郡香春へと退きますが、篠崎もこの時に炎上しています。
 その後、篠崎の地は陸軍がなだらかな地形に整地して練兵場にしています。整地を行った時期は分かっていませんが、1875(明治8)年4月、小倉に歩兵第14連隊が設置されますので、これ以降と考えられます。その後、1933(昭和8)年に開業する陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)小倉工廠を経て現在に至っています。
 練兵場となって以降の篠崎の地形は1898(明治31)年に日本陸軍陸地測量部が測図した「小倉」の地図(以下、明治の地図)の中に見ることができます。この地図に示された城外から篠崎へと続く台地の流れに違和感はなく、江戸時代前の姿を彷彿(ほうふつ)とさせます。
 さて、図1の左側に明治と平成の地図とを合成し、篠崎の範囲に限定して前者の等高線間に色づけをし、さらに武家屋敷の道と街区の復原図を赤線で示した地形図を掲載しています。

図1 篠崎の地形と江戸時代の街区(左)、明治の練兵場に伴う塀跡(右)

 

 同図によれば、当時の篠崎の地形は中央に茶色で示した標高12・5メートル以上の部分が最も高く(以下、高台)、南西側を除く他の方向へと緩やかに下っています。また、江戸時代の道全てが等高線に対して斜めに通るため、屋敷地は地形の高低差から階段状に造らざるを得ず、内部の見通しも悪かったと考えられます。
 1928(昭和3)年に始まる造兵廠の建設工事により、高台は最大3メートルほど削平(さくへい)され、大半の遺構が失われたと考えられます。一方で、練兵場の整地作業による遺構への影響についてはこれまで知られていませんでした。しかし、平成26年度に行った大手町遺跡第13地点の発掘調査でこの練兵場の整地跡を確認することができました。
 第13地点は同図右下の緑色範囲の中央近くにあり、篠崎の南東部とその東側崖下に位置する町屋敷跡の調査を行っています。
 篠崎の調査では馬場町筋の道や武家屋敷、藩役所、馬場等の跡を確認しています。練兵場の整地作業は広範囲に及んでおり、調査区中央を南北に通る砂利敷き舗装をした道(写真1)上面の標高10・5メートル前後を基準に、これ以上の高さの部分を削り取り平坦(へいたん)に整えていました。その範囲は図1の右側に赤色で示した練兵場に併設した塀の基礎跡より左側になります。
 

写真1 馬場町筋の舗装された遺跡(北から)


 同図右下の低地は町屋敷跡を射撃訓練場とした場所で、塀は防弾を兼ねていたと考えられます。この塀の屈折部分に練兵場から下りるための出入り口が設けられており、ここから訓練場へと続く坂道は江戸時代に造られていた道です。
 明治と昭和の両時代に行われた大規模工事により篠崎の武家屋敷跡は大きく損なわれましたが、明治の地図に描かれた標高11・25メートル以下の場所には、削平を免れた遺構が多く眠っていることを第13地点の調査結果は示しています。



〈埋蔵文化財の展示案内〉
・北九州市立埋蔵文化財センター
  〈小倉北区金田1の1の3 093(582)0941〉
 北九州市を掘る(86) 埋蔵文化財速報展
  『紫川中流域の弥生ムラ―上徳力遺跡第27地点―』
 弥生時代の土器や石器、お祭りに使うミニチュア土器など約65点を展示
 常設展もあり

【入館料】
 無料 

【開催期間】
 8月20日(日)まで

【開館時間】
 午前9時~午後5時
 (入館は午後4時30分まで)
 ※毎週月曜日(休日の場合はその翌日)、
  年末年始は休館

・ 黒崎歴史ふれあい館
  〈八幡西区黒崎3の15の3黒崎駅横コムシティ1F〉
 常設展開催中/『城下町から宿場町へ~出土品が語る黒崎の歴史と文化~』
        『シュガーロード・発掘物語』

【入館料】
 無料 

【開館時間】
 午前9時~午後5時
 (入館は午後4時30分まで)
 ※年中無休

【このコーナーの次回掲載予定は9月号です】